2017年8月19日土曜日

安斎育郎さん・平和へのメッセージ

福島で長いあいだ一緒に行動させていただいた
放射線防護学者の安斎育郎さんには、
もうひとつの肩書きがある。
「平和学」の研究者というもので、
今年の「原水爆禁止世界大会・長崎」では、
7日、世界から集まった6000人の聴衆を前に、
主催者を代表して報告を行なった。

安斎育郎さん(77)

その報告が安斎さんらしいウィットに富んだもので、
面白く、かつ知的刺激に充ちている。
ご許可をいただいたので、
長文になるがここに原稿の全文を掲載する。


皆さん、こんにちは。
台風のなかをようこそ
原水爆禁止世界大会・長崎にご参加いただきました。
まずは、主催者を代表して、
原水爆禁止2017年世界大会が国際会議を皮切りに成功裡に進められ、
国内外の核兵器廃絶への熱い思いを総結集して、
ここ長崎大会に至っていることをご報告申し上げます。

今年は、長崎への原爆投下から72年目に当たります。
私はこれから少し変わった話をしますが、
皆さんが出来るだけ話についてきてくれることを期待します。
私は数学好きということもあって、
「数」を見ると脳にビビビッと電撃が走ります。
そして、
原爆投下から72年目の「72」という数にも格別の思いがあります。
皆さんにとってはやや奇妙な話に聞こえるかもしれませんが、
ちょっと忍耐の精神を発揮していただくことを期待します。

実は、72という数は
数学者の間では「最小のアキレス数」として知られています。
いったい「アキレス数」とは何か?
72は「9×8」ですが、9は3の2乗、8は2の3乗です。
世界大会で
算数の勉強をしようとは思いもよらなかったかもしれません。
つまり、72は「3の2乗」×「2の3乗」なのですが、
このように「aの2乗」×「bの3乗」という形で表される数は
英語で「パワフル・ナンバー」と呼ばれています。
一方、例えば「36=6の2乗」とか「81=3の4乗」というように、
すっきりと「aのb乗」の形で表される数は
英語で「パーフェクト・ナンバー」と呼ばれていますが、
72はこのような形で表すことは出来ません。
つまり、72という数は「パワフル・ナンバー」だが
「パーフェクト・ナンバー」ではない、
「パワフルだがパーフェクトではない」のです。
日本語で言えば、「強力だが完璧ではない」という意味です。
実は、このような
「パワフルだがパーフェクトではない数」の最小値が72で、
このような数のことを数学者は「アキレス数」と呼んでいます。

皆さんは「アキレス腱」という
「かかと」のところにある腱をご存じだと思いますが、
その名前はギリシャ神話に登場する
英雄アキレスの名前に由来するものです。
アキレスの母は、
わが子アキレスを不死身の体にしようと、
この世とあの世を分ける神の川「ステュクス川」の水に
アキレスの体を浸しましたが、
その時、母親がつかんでいた「かかと」だけ水に浸らず、
そこが致命的な弱点となってしまいました。
アキレスは長じてトロイア戦争で活躍しますが、
弱点のかかとを弓で射抜かれ、
それが致命傷となって命を落としました。
この「強かったが完璧ではなかったアキレス」の名前が
今日「アキレス腱」として残り、
「72」のような
パワフルだがパーフェクトでない数の名前として使われています。
もっともこんなことに興味をもつのは、私だけかもしれません。
 
さて、長崎原爆投下から「アキレス数」の72年がたった今年、
私たちは国連で「核兵器禁止条約」という
「完璧ではないにしても、強力な条約」をもつことになりました。
この条約は、
国連加盟193か国の3分の2近い国々が賛成した
大変「パワフルな」内容の条約ですが、
核保有国ばかりか、
その拡大核抑止政策に囚われている
被爆国・日本をはじめとする国々が参加していないという点では、
今のところ「パーフェクト」ではありません。
その意味では「アキレス条約」と言えなくもありませんが、
私は、
この条約を実現させることに貢献した
原爆被爆者や世界中のNGO、政府関係者、
そして、この大会にも参加されている国連軍縮担当上級代表の
中満泉(なかみつ・いずみ)さんらの努力を高く評価し、
改めて敬意と謝意を表したいと思います。
かつて私が「平和学」を担当していた立命館大学で
同僚でもあった元・国連事務次長の明石康さんは、
京都で開かれた軍縮関係の会議で、
“An ideal today will become a reality tomorrow”
(今日の理想は明日の現実となる)と述べましたが、
核兵器禁止条約の採択は、
被爆者をはじめとして
60年以上に渡って原水爆禁止運動に取り組んできた多くの人々にとって、
まさに「遠くにあるように見えた理想が目の前の現実として見えてきた」
素晴らしい出来事であり、
当世界大会国際会議宣言も、
「核兵器禁止条約は、
 被爆者と世界の人々が長年にわたり熱望してきた
 核兵器完全廃絶につながる画期的なものである」と評価しています。
条約は、改めて、
核兵器は「破滅的な結末をもたらす非人道的な兵器」であると規定し、
核兵器の開発・生産・実験・製造・保有・貯蔵および使用と
その威嚇の一切を禁止する抜け道のない原則を明らかにするとともに、
まだ参加していない核保有国が
将来条約に参加する道も用意する配慮も忘れませんでした。
また、条約は、
「ヒバクシャ」と核実験被害者の
「受け容れがたい苦痛と損害」を心に留め、
核兵器廃絶を推進する
「市民的良心の役割」の担い手として明記したことは、
「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えてきた被爆者の活動を
正当に評価したものでした。

世界には、いまだに約15,000発の核兵器が存在し、
人類生存への脅威となっていますが、
40年以上、この原水爆禁止世界大会運動に関わってきた私にとって、
核兵器禁止条約は
「志を同じくする者が力を合わせて
 まっとうな主張を世界に粘り強く働きかければきっと報いられる」
ということを教えてくれる「希望の光」でもあります。

今から40年前の1977年、
この国の原水爆禁止運動は運動の進め方や
原発問題を含む個別課題に対する考え方をめぐって
意見の対立を抱えていました。
何とか状況を打開したいと考えた関係者たちは、
前の年の2月に国連NGO軍縮特別委員会が開催を決議していた
「被爆の実相とその後遺、被爆者の実情に関する国際シンポジウム」を
それこそオール・ジャパンで共同開催するために
懸命の努力を払いました。
そして、
この被爆の原点に立ち返った「人間の顔をしたシンポジウム」は、
ノーベル平和賞受賞者のショーン・マクブライドさんや
フィリップ・ノエル=ベーカーさん、
後にノーベル平和賞を受賞した
ジョセフ・ロートブラットさんらも参加して
画期的な成功を収めたのですが、
私たちはその成果を踏まえて、
翌1978年に開催された第1回国連軍縮特別総会(SSD-I)に
日本から502名の統一代表団を送りました。
私は広報担当の運営委員として参加し、
5日間で13時間しか睡眠時間がとれない
超多忙なニューヨークでの日程の後、
宗教者・科学者チームの一員としてボストンの市民集会に臨みました。
その時、日本から参加した僧侶が流暢な英語でこう訴えました。
“Three years ago in 1975,
 we achieved the Biological Weapons Convention.
 Why not atomic bombs? Why not nuclear weapons?”
(われわれは3年前の1975年、生物兵器禁止条約を実現した。
 なぜ原爆は禁止できないのだ、なぜ核兵器は禁止できないのだ?)

それから40年目の今年、
私たちはついに国連での核兵器禁止条約の採択という
歴史的瞬間を目撃するに至りました。
今世界大会の国際会議宣言が提起しているように、
私たちは、
「核兵器禁止条約の調印開始日」である9月20日から、
「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」である9月26日までの1週間、
「草の根」からの多彩な行動を
世界同時につなぐ「平和の波」を湧き起こすことを皮切りに、
すべての国が速やかに核兵器禁止条約に参加し、
核兵器の完全廃絶に取り組むことを求める世論を大きく発展させ、
条約をいっそうパワフルに、
そしてパーフェクトに近づけるために奮闘することが求められています。
とりわけ、日本の原水爆禁止運動に責任を負う私たちは、
被爆国である日本政府が
核兵器禁止条約への参加を拒んでいることについての失望を憤りに変え、
核兵器禁止条約への加盟を
「国政マター」として提起しなければならないでしょう。
驚くべきことに、日本政府は、
戦時における核兵器被害の辛酸を舐めた唯一の国の政府でありながら、
「日本国憲法は核兵器の保有および使用を禁止していない」という
答弁書を閣議決定しています。
日本の安全保障を
アメリカの「核の傘」に依存するという「核抑止政策」は、
「核兵器によって戦争を防ぎ、核脅迫によって核戦争を抑止する」
という考え方ですが、
その危うさはつとに指摘されてきました。
かつて、国連事務総長報告でも、
「核抑止力は、それが破綻する時まで機能するに過ぎない」と
指摘されたことがあります。
1週間前、長崎県の遊園施設で
バンジージャンプのロープが切れる事故がありましたが、
直前の検査でも安全であると判断されていました。
命綱はそれが切れるまで命綱であるに過ぎない─
国連事務総長報告は、
核抑止力はそれが機能している間だけ抑止力であるに過ぎず、
いつ破綻するか分からないところにこそ
その本質的危険性があることを指摘したものです。
私の友人であり、
この世界大会にも参加したことのあるロバート・グリーンさんは、
元イギリス海軍将校として核戦略にも関わった人ですが、
1982年にイギリスとアルゼンチンのあいだで起こった
フォークランド紛争で核抑止論の欺瞞性に気づき、
後に『核抑止なき安全保障─核戦略に関わったイギリス海軍将校の証言』
などの著書を通じて核抑止論を厳しく批判し、
「核抑止政策は国家的信用詐欺」だと断罪しました。
核保有国の核抑止政策のもとで、
イスラエル・インド・パキスタン・北朝鮮など、
核兵器保有を追い求める国が続発してきましたが、
自ら大量の核兵器を保有するアメリカ等の核兵器国がそれを批判しても、
さっぱり説得力を持ちません。
それは時には
「ヘビー・スモーカーによる禁煙運動」とさえ揶揄されてきました。
私たちが、これ以上の核兵器の拡散を防ぎ、
現存するすべての核兵器を廃絶する道は、
私たちが長い努力の果てに手に入れた
核兵器禁止条約というパワフルな道具を有効に活かし、
核兵器国やその同盟国の人々にも訴えかけて政策の変更を迫り、
核兵器完全廃絶という
パーフェクトな目標に向かって歩んで行く道しかないでしょう。

世界大会・長崎に参加された皆さん。
私たち一人一人は、
パワフルでも、ましてやパーフェクトでもなく微力かもしれませんが、
いつも言うように、
私たちは「微力」ではあっても決して「無力」ではありません。
その何よりの証拠が
核兵器禁止条約を手にしたという事実の中に凝縮されています。
0(ゼロ)は1億倍しても「0」ですが、1は1億倍すれば1億です。
そこにこそ、
全世界で2020年までに数億を目標に取り組まれている
「ヒバクシャ国際署名」の力がありますし、
単に結果だけでなく、
そのような「1」を足し合わせる
地道な活動に取り組むプロセスを通じて、
周囲の人々に核兵器のない平和な未来を選び取る意義を訴え、
支持を広げ、協同の輪を拡大していくことがとても大切だと思います。
あのマハトマ・ガンジーは、
「運命は私たちがつくるものだ。
 いまからでも遅くない。いまをどう生きるかで未来が決まる」
(Fate is what we make . It is not too late now.
 How can you live in the now, the future is determined.)と言いました。
私たちは、私たち自身のために、
そして私たちに続く未来の世代のために、
悔いのない生き方を選び取りたいものです。
今日から始まる原水爆禁止2017年世界大会・長崎の成功のために、
大会ご参加のみなさんが台風をものともせず、
国際会議宣言を学び、
互いに各地での活動の経験や意見を交わし合い、
実りある大会にして頂くことを心よりお願いして、
主催者としての報告と致します。

ありがとうございました。

2017年7月23日日曜日

一年ぶりのダイビング

20日、21日と伊豆海洋公園で海に潜った。
去年の8月20日以来のダイビングだから、ほぼ一年ぶりだ。


その前に潜ったのは2014年の10月だから、
2年近く開いている。
結婚前には年間100本潜った年もあるというのに、
ここ数年の“海離れ”は自分でも情けない。
もっとも、これには理由があって、
オキサリプラチンという抗がん剤を使っていた関係で、
副作用で冷たい水に触れると手足の指先が痺れ、
なかなかダイビングというわけにもいかなかったのである。
それが副作用が積み重なって
骨髄の造血能力が落ち込んだため、
オキサリプラチンの点滴を休止することになり、
指先の痺れが軽くなって
ダイビングに差し支えがなくなった。
人間万事塞翁が馬というか、
いったい何が幸いするかわからないものである。


久しぶりに伊豆の海に行って驚いたのは、
平日とはいえ
真夏だというのにダイバーが少なかったことである。
ダイビング人口の減少は数年前から実感してはいたが、
この衰退ぶりは何に起因するものなのだろうか?
景気の悪さが直撃しているのかもしれないし、
若い女性を中心に
神経質に日焼けを嫌う風潮も関係していそうだ。
ぼくとしては
夏だというのに
ビキニの若い女性たちの姿が少ないのが淋しい。

一方、
ダイバーの世界もご多分に洩れず高齢化が進んでいて、
ぼくがいつも使っているショップの初日の客は3人。
そのなかで
61歳のぼくが一番若いというのも困ったものである。
翌日(金曜日)の客はぼく一人だった。



伊豆海洋公園で潜るのは
「ブリマチの根」というポイントが多く、
ソフトコーラルが綺麗で魚影も濃いところである。
イサキやタカベ、アジなどの回遊魚、
さらには地付きの魚である
キンギョハナダイやスズメダイの大群は壮観である。


イサキが何匹か塊になって泳いでいる。
なんだろう?…とよく見ると、
ホンソメワケベラが一匹混じっている。
ホンソメワケベラは
他の魚の食べ残しや皮膚についた寄生虫を食べる、
言わば“海のクリーニング屋”。
あるいはエステのようなものだろうか?
…心地よいらしく、
イサキたちは大人しく順番を待っている。


目の前をイワシの大群が
凄まじいスピードで横切っていった。
たぶん何かに追われていたのだろう。
イルカかブリ、シイラか…捕食者の正体は確かめ損ねた。
もっとも、今回は深いところの水が濁っていて、
すっきり抜けてくれないので後半は小さな被写体を中心に狙った。


これはキイボキヌハダウミウシ。
ぼくはズームレンズが嫌いで、
今回も38mmと60mm相当のSigmaのレンズを持ち込んだ。
ともにF2.8なので、開放で狙えばボケの効果も期待できる。


これはキヌヅツミガイの仲間、
たぶんツリフネキヌヅツミガイだろう。
こうした宝石のような綺麗な貝に出会えると嬉しい。

いまは年金生活者で
かつてのように小遣いに不自由しない立場ではないが、
体調が許す限り、海に復帰したいと思っている。
21日までに潜った本数は755本、
可能であれば生きているうちに1000本を達成したいものだ。

2017年6月22日木曜日

原発事故による健康被害の「評価」をめぐって

昨日、Twitterでジャーナリストの佐々木俊尚氏が、
「甲状腺癌の多発」と書いた
民進党のあべともこ氏を批判して
「福島についてまたこんなデマを」と書いた。
ぼくはそれに対して、
それこそ「見え透いたデマ」だと反論をした。
ぼくは福島の現状を徒に危険視する立場には与しない。
しかし、
福島原発事故による放射線の健康被害に関しては
まだはっきりした結論は出ていないはずである。
あたかも「影響はない」というのが
科学的結論であるかのように決めつける
佐々木氏の言説に強い違和感を覚えたのである。
以降、ぼくのタイムラインは
賛否両論でちょっとした炎上状態にある。

何人かの方に指摘されたが、
現状で確認されているのは甲状腺がんの「多発見」で、
それが即ち「多発」とは言えない。
充実した検査を行なった結果、
従来に比べ発見が増えたことが考えられるからである。
確かにぼくの文章はその点は軽率で、
修正するにやぶさかではない。
しかし、
「多発見」が「多発」を意味しないのと同様、
「多発」を否定するものでもないことは明らかである。
佐々木氏やTwitterでぼくを批判した人たちは、
何を根拠に
「単なる多発見で、多発とするのはデマ」だと断定し、
「福島原発事故による甲状腺がんの発生はない」ことが
科学的に証明されたかの如き主張をするのだろうか?

福島県が主宰する福島県民健康調査というものがある。
去年の春、中間とりまとめを公表した。
この調査は当初、
「県民に安心してもらうための調査」だと説明、
その点を各方面から強く批判された。
これは当然で、
あらかじめ結論を決めてから
調査をするというのは倒錯である。
ぼくが取材した人たちのなかにも
強い不信感を抱き、
受診を拒否する人たちが少なからずいた。
原発事故の影響を軽視する
バイアスがかかっていると指摘され、
件のあべともこ氏の発言もこの調査を批判したものだ。
とはいえ、調査データの豊富さと、
多方面の専門家が科学的な検討を加えるという意味で、
現時点でこの調査以上に充実したものはあるまい。

この福島県民健康調査では、
「多発見」の要因をどう見ているのだろうか?
ぼくは改めて中間とりまとめに目を通した。

「先行検査(一巡目の検査)を終えて、
 わが国の地域がん登録で把握されている
 甲状腺がんの罹患統計などから
 推定される有病数に比べて
 数十倍のオーダーで多い甲状腺がんが発見されている。
 このことについては、
 将来的に臨床診断されたり、
 死に結びついたりすることがないがんを
 多数診断している可能性が指摘されている」
 
中間とりまとめの記述である。
いわゆる「過剰診断」が
多発見の要因である可能性に言及している。
しかし、「可能性が指摘されている」という記述は、
それが
検討委員会のコンセンサスではないことを示している。
コンセンサスであれば、
「多数診断したためと考えられる」等と書くはずである。
つまり、福島県民健康調査検討委員会では、
一部の人たちが主張するように
「多発見」の要因が
「過剰診断」だと断定しているわけではない。
言い換えれば、
「多発」であるかもしれない可能性を留保している。
科学者がファクトに忠実であろうとすれば、
一般にこうした留保を多くつけることになる。
その留保を読み飛ばして、
安直に結論に走るのは誤りであろう。

どうしてこういう記述になったのか、
ぼくはさらに検討委員会の下部組織である、
甲状腺検査評価部会の議事録を読み進めることにした。

議事録を読んですぐに気がついたのは、
部会に属する専門家たちが、
オブザーバー的な立場で出席している
福島県立医大の教授たちも含め、
ある大前提を共有したうえで
議論をしているということである。
委員たちが口々に繰り返しているのは、
事故の被ばくによって
将来甲状腺がんが発生する
可能性は否定できないということである。
中間とりまとめのために
清水一雄部会長(日本医科大名誉教授)が
作成した文案から引く。
以下の文章が部会のコンセンサスだと考えられる。

「現時点で、検診にて発見された甲状腺癌が
 被ばくによるものかどうかを結論づけることはできない。
 放射線被ばくの影響評価には、
 長期にわたる継続した検査が必須である」
 
放射線被ばくの影響は
4〜5年後から現れると言われており、
その影響を見極められる時点まで調査を継続しなければ、
結論には至らないというのである。
そのうえで、とりまとめの文案では以下のようにいう。

「これまでに発見された甲状腺がんについては、
 被ばく線量が、
 チェルノブイリ事故と比べてはるかに少ないこと、
 事故当時5歳以下からの発見はないことなどから、
 放射線の影響とは考えにくいと評価している」 
 
「結論づけることはできない」ことを前提に
「これまでに発見された甲状腺がん」に限定して
「放射線の影響とは考えにくい」と評価しているのである。
原発事故に起因する
甲状腺がんの発生は(今後も)考えられないなどとは
誰一人として言ってはいない。

付け加えれば、
これまでに発見された甲状腺がんが
原発事故が原因だとするには発生時期が早過ぎるというのも
「考えにくい」根拠として指摘されている。
この部会長とりまとめ案が諮られたのは2015年3月であり、
事故からまだ4年しか経っていない。 

それでは、「多発見」問題についてはどう議論されたのか?
2015年2月の第5回甲状腺検査評価部会において、
渋谷健司委員(東大大学院教授)から次の発言がある。

「前回の津金先生のデータからすると
 予測される有病率よりもはるかに高くて、
 実際に被ばくによる影響というのは
 まだまだこれは調べなくてはいけないのですけども、
 今の被ばく量からするとそこまで出る、
 あるいは時期的にも
 そこまで出る可能性は低いというのは
 皆さん何度も述べているわけですよね。
 じゃ、可能性としてどうなのかと考えた時、
 過剰診断という言葉は
 あまりよろしくないというのであれば
 Overdiagnosisという言葉を使いますけど、
 それが一番妥当であると」
 
つまり、
これまでに発見された甲状腺がんは
放射線の影響とは考えにくいとの判断を前提に、
では、
なぜ甲状腺がんの発見が多かったのかを説明するには、
「過剰診断」の結果と考えるのが合理的だというのである。 
一部の人たちが主張するように、
「多発見」は過剰診断が原因であり
「多発」ではないことが明らかにされたわけではない。
論理の展開がまるで逆方向である。

そして、翌月に行われた第6回部会で、
清水一雄部会長が示したとりまとめ案では、

「検査結果に関しては
 過剰診断の面も考えられるとの意見も多かった」

としていたが、
西美和委員(広島赤十字・原爆病院)から

「この『多かったが』というのが、本当に多かったのか、
 むしろ私は
 『意見もあったが』の方がいいかな
 というふうに思いますけども」

との指摘があり、
これが中間とりまとめの
「可能性が指摘されている」との表現に
つながったと推察される。

甲状腺検査評価部会の議事録を読んで、
ぼくは当初想像していた以上に、
原発事故による甲状腺がん発生の可能性を
専門家たちが慎重に留保していることを知った。
そしてもうひとつ、気がついたことがある。

甲状腺検査評価部会のとりまとめ、
「2.放射線の影響評価について」の冒頭にあった

「現時点で、検診にて発見された甲状腺癌が
 被ばくによるものかどうかを結論づけることはできない」

との一文が
翌年2月に検討委員会に示された
「中間取りまとめ最終案」では消えているのである。
そして、部会のとりまとめにはなかった
 
 「放射線の影響の可能性は小さいとはいえ
  現段階ではまだ完全には否定できず」
  
という一文が付け加えられていた。

「結論づけることはできない」が消え、
「放射線の影響の可能性は小さい」が
付け加えられたことにより、
文章の与える印象は随分と変わったものになっている。
中間とりまとめには

「甲状腺検査部会の中間とりまとめを踏まえ、
 本委員会として要約・整理・追加した」

との但し書きがあるが、
なぜこのような変更が行われたのか、
その点については
議事録にないので確認しようがなかった。
中間とりまとめを決めた昨年2月15日の検討委員会では、
清水一雄部会長を始め、
甲状腺検査評価部会の主なメンバーが欠席したため、
この点についての言及はなされないままに終わっている。

 
 

2017年4月14日金曜日

桜日記

桜の季節になると何となく胸騒ぎがするのは、
日本人に生まれたDNAのなせる技なのだろうか?
ただし、花の下で宴会に興じる趣味はない。
桜はどこか“死”を思わせずにはおかない陰の花だ。
一人ほっつき歩いて、
その陰気な美しさを愛で、写真を撮る、それだけである。

6日の木曜日、
目黒碑文谷の藤原照康さんの店に
研ぎに出していた包丁を受け取りに行った。
藤原照康さんは日本刀を鍛える刀工である。
目黒の桜は満開だった。
偶然だが、桜と日本刀とは如何にも右翼好みの美意識だ。


目黒川沿いの遊歩道は、
最近、花見の名所として人気があるらしい。
宴会は禁じられているようだが、大変な人出である。
様々な国々の言葉が耳に飛び込んでくる。
中国語がひときわ多いようだ。

翌7日(金)、千鳥ケ淵の桜を観に行った。
ぼくはここの桜が一番好きである。
お堀端の桜は陰々滅々として、凄まじいまでに美しい。


千鳥ケ淵の桜が美しいのは、
すぐそばに戦没者墓苑があるからではなかろうか。


桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。
何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて
信じられないことじゃないか。
(梶井基次郎「檸檬」より)

この日の夕方、新幹線で京都に向かった。
妻が京都にある鍼灸大学院で学ぶことになったが、
あいにく問答無用の方向音痴であるため、
放置しておくとアラスカあたりに行ってしまいかねない。
だから、大学院までぼくが“護送”するのである。
この夜は、二人で清水5条にある「櫻バー」で夕食。
別に狙ったわけではないが、櫻(桜)である。
何を食べても美味しくて安い、大変にいい店である。
週末とあって、
店は地元・京都の人らしい客でごった返していた。

8日土曜日。
京都駅からJRで1時間の鍼灸大学院まで妻を送る。
その後はフリーなので、
宇治平等院鳳凰堂を訪れることにした。


毎日のように(それと意識せず)見ている建物だが、
実際に訪ねたのは初めてである。
小雨模様のあいにくの天気だったが、
春雨じゃ、濡れて参ろう…
独りなのが残念だが月形半平太の心境である。

京都にもう一泊して9日の日曜日。
駅前のキャンパスセンターで会合のある妻を送って、
ぼくは任務から解放された。
そのまま東京に帰っても詰らないので、
これも初めての嵐山を訪れることにした。
思えば京都には何十回も来ているはずだが、
ほとんどが仕事絡みで「観光」にはあまり縁がなかった。

JR嵯峨嵐山駅に降りると、これまた大変な人出である。
渡月橋に向かって歩いていると、
天龍寺という寺があり桜がきれいに咲いている。
あとで調べると世界遺産に指定されている寺なのだが、
旅に際してほとんど下調べをしない性質なので、
いつも行き当たりばったりである。


よさそうなので入場料500円也を払って境内に入ると、
枝垂れ桜や三葉躑躅のほか、
様々な花が咲き乱れて桃源郷を思わせる美しさ。


枯山水とはまた違う日本の庭園美が
ここに尽くされているのではないかとさえ思う。
こういうところであれば、一日中でも居たいものだ。

午後の新幹線で東京に戻って、
10日の月曜日は我が家の周辺を散歩。
近所に素晴らしい枝ぶりの桜の古木がある。


荻窪界隈には武蔵野の名残りか庭に巨木のある家が多い。
しかし、
艶消しなのが電柱と電線で、甚だしく美観を損ねる。
オリンピックに使う金があれば、
電線の地下埋設を進めてほしいものだとつくづく思う。
海外から東京にやってくるお客さんにとっても、
その方が遙かに「おもてなし」になると思うのだが。

11日に冷たい雨が降り、東京の桜は散り始めた。
12日の水曜日には、
我が家から20分ほどの善福寺川緑地を散策した。


散り始めているとはいえ、ここの桜も大変に美しい。
桜はどうやら水辺に似合いの花である。

きょう、14日の金曜日、釧路に移動。
この地で桜(ヤマザクラ)が咲くのは5月の中旬、
まだ一ヶ月ほど待たなければならない。
釧路地方の桜の開花は北海道の北端・稚内より遅く、
日本列島を北上してきた桜前線はここで消滅する。









2017年4月4日火曜日

33年ぶりのアナログ回帰

先日、広島の実家に帰ったときのことである。
“遺産の生前分与”というわけでもないだろうが、
88歳になった親父がレコードを譲りたいと言い出した。
CBSソニーのクラシック音楽全集が100枚近くあるという。
親父はクラシックが好きで、
若い頃はスピーカーを自作したこともあるというから、
それなりのオーディオマニアでもあったのだろう。
ぼくが幼い頃には、
我が家に家具調の立派なレコード収納棚があって、
78回転のSP盤が大量に入れてあったのを記憶している。
残念ながら大半は火事で焼失してしまったが…。

ぼくはそんな親父の血を引いたらしく、
若い頃はかなりオーディオに凝っていた。
ぼくの場合は
(自分が生まれた前後の)古いジャズが中心だが、
クラシックや浅川マキ、山口百恵などもあって、
新人時代を過ごした釧路の狭いアパートに
大きなオーディオ装置を持ち込んで聴いていたのである。

ところが、釧路から東京に転勤すると(33年前)、
社宅としてあてがわれたアパートがあまりに狭かった。
6畳のワンルームというふれこみだったが、
団地サイズなので実質的には四畳半。
それも洋間なのでベッドを置かなければならない。
本棚とテレビを入れると机も置けず、
仕事をするときにはベッドに腰かけて
折り畳み式のテーブルを開かなければならなかった。
オーディオどころの話ではなかったのである。
オーディオ装置一式と
100枚以上あったレコードはすべて広島の実家に送った。
その後は、
コンパクトなオーディオ装置を求めて聴いていたが、
専らCDで、
アナログレコードとは縁を切った格好だった。

22年前に現在の釧路の家を建てたときに
やはり大きなスピーカーで音楽を聴きたくなって、
タンノイの中古品を買い求めて部屋に置いた。
アンプはアキュフェーズのプリメインで、
MCカートリッジにも対応するphono入力を備えていた。
しかし、このときも、
いまさらアナログに戻ろうという気にはならず、
レコードプレーヤーを置くスペースは用意しなかった。

死を意識せざるを得ない年齢の親父が
大切にしていたレコードのコレクションを
むざむざゴミにしたくないと思う気持ちはよく解った。
親父の一言がきっかけとなって、
ぼくは三十数年ぶりに
アナログの世界とよりを戻すことになったわけだ。
とはいえ、
ぼくのと合わせて二百枚以上になるだろうレコードを
狭い東京のマンションに持ち込んだのでは、
かみさんの逆鱗に触れるハメになるのは間違いない。
だから、レコードは釧路に送ってもらうことにした。
プレーヤーはかつて使っていたパイオニアのPL70LⅡが
広島の実家に置いたままになっていたが、
これがあまりに大き過ぎて、
釧路の家にも設置する場所を確保できないことが判明。
大判の本を並べていた棚を空けて、
そこに置ける大きさのプレーヤーを新しく買った。


30数年ぶりに買ったレコードプレイヤーは
イギリス製のRega Planar1というもので、
すっきりして無駄のないデザインが気に入った。
機能もミニマムである。
ぼくの場合、
phonoイコライザーはアンプに内蔵されているし、
アナログ音源をデジタル化するつもりもないから
USB出力も要らない。
そうした余計な機能のついていない
ただ音楽を聴いて愉しむための本格的なプレーヤーで、
一番安いものを探したらこれになった。
カートリッジは専用のものがついているので、
面倒な調整が一切必要ないのが楽である。
もし、これより上のクラスのものを買ったとしたら、
やれシュアーだ、オルトフォンだと、
カートリッジを取っ換え引っ換えして
(かつてそうだったように)夢中になるのは明らかで、
凝り性の自分の性格を考えて自制したところもある。

プレーヤーが届いてすぐに設置したものの、
肝腎のレコードがまだないので音を聴くことができない。
そこで試聴用に、
amazonでノラ・ジョーンズのアルバムを一枚買った。
デビューアルバムの「COME AWAY WITH ME」である。


さっそく鳴らしてみると…記憶していたよりいい音がした。
透明感があって、
刺激的なところが全くなく、
ノラの声が深く伸びやかに聞こえる。
レコードが新しいからだろうが、スクラッチノイズも皆無。
これならCD以上に音楽に没入できそうだ。


スピーカーが同じイギリス製であるのみならず、
そもそもアナログ時代の製品だから相性がいいのだろう。
聴き慣れた音源で聴き比べてみないことには
CDとの音質の違いにはっきりしたことは言えないが、
久々にアナログの魅力を再認識した。
少なくとも、
レコードに覚えるモノとしての「愛着」は、
CD時代にはすっかり忘れていた感覚だった。

しかし、ぼくも既に60歳を超えている。
26歳の息子はオーディオには関心などなさそうだ。
いつかぼくが死んだら、
親子二代のコレクションはどうなるのだろうか(笑)。


2017年4月2日日曜日

冬と春とがせめぎあう

東京と釧路を行ったり来たりの生活がもう20年近い。
もともと釧路の家は、老後を過ごそうと考えて建てたものだ。
去年、定年退職したものの、
まだ仕事を続けていたので東京ベースの生活が続いた。
それでも、去年は釧路でおよそ100日間を過ごした。
気がついたことは、
釧路にいるときの方が体調がいいということである。
寒い土地なのに…やっぱり空気が東京とは違うのだろうか。
この4月からは、
仕事を一歩退いて、釧路での生活を長くすることにした。
東京の病院で続けていた抗がん治療も釧路に移した。
ありがたいことに、
釧路の病院でも東京に引けを取らない治療ができる。


先月29日から釧路に来ているのだが、
東京はもう桜が満開だそうだ。
釧路はようやく早春の気配が漂い始めたところ。
我が家の周辺では、冬と春とがせめぎ合っている。


この写真は我が家の南側、もう雪はほとんど残っていない。
きのうは家の周辺でふきのとうを摘んできて、
「ばっけ味噌」を作って酒の肴にした。
「ふきのとう味噌」のことだが、
単身赴任していた仙台ではそう呼んでいた。


こちらは家の北側、一転して雪のピラミッドである。
屋根から落ちた雪が溜まって、
ぼくの背丈ぐらいある円錐状に積もっている。
帰ってきて早々、
除雪をして玄関に入る道をつけなければならなかった。
夏の雨は馬の背を分けるというが、
釧路の春の雪は家の屋根を分けるものらしい。


我が家から歩いて5分ちょっとの千代の浦海岸に
流氷が接岸していることをニュースで知った。
散歩がてらに行ってみると、確かにびっしり接岸していた。


アムール河口域で生成された流氷が遥々オホーツクを流れ下り、
知床岬をまわりこみ、納沙布岬をも越えて、
釧路の海岸線にまで旅してきたのである。


網走あたりには毎年のように接岸するが、釧路まで来るのは珍しい。
ニュースによれば9年ぶりだそうだ。
氷の上を渡ってくる風は冷たいが、
陽光がすっかり春めいてきたのでそれほどの寒さは感じない。

釧路で桜(ヤマザクラだが)が咲くのは5月中旬になる。
稚内よりさらに遅く、「桜前線」は釧路あたりで消滅するのだ。
同じ頃、家の庭に植えたツツジも咲くだろう。
ちょっとした用事があって来週は一度東京に戻るが、
一週間ほどでまた釧路に引き返してくる。
今年は、釧路でゆっくりと春の訪れを見守るつもりだ。








2017年2月19日日曜日

森友学園問題の深い闇

ぼくはいま怒り狂っている。
森友学園事件(敢えて「事件」という)についてである。
安倍首相の
政治家としての資質(あるいは資質の欠如)に関わる問題で、
もう少しまともな世の中であれば内閣が吹っ飛ぶような話である。
…といっても、
「事件」そのものがピンと来ない方もいらっしゃるだろう。
テレビや新聞が問題の全貌を伝えないからで、
大手マスコミの権力に対する腰砕けがまた腹立たしい。
いまのところネットメディアのLITERA
事件の全貌を一番きちんと伝えているようだ。

森友学園事件については互いに重なりあう二つの側面があり、
その重なりあう部分の要に「安倍晋三」という存在がある。

問題のひとつは
学校法人・森友学園が新設する小学校の用地として
国有地が相場の9割引きという破格値で払い下げられたこと。
この小学校は3年前、
「安倍晋三記念小学校」の名で寄付金集めを行なっており、
名誉校長には安倍昭恵・首相夫人が就任している。
この学校法人の経営者は、
安倍政権に大きな影響力を持つとされる
宗教右翼団体・日本会議の有力メンバーである。
この“お手盛り感”は
明治の北海道官有地払い下げ事件を想起させずにはおかない。
安倍首相は国会で
森友学園に便宜を図るよう働きかけたことはないと答弁した。
それはその通りだろうと思う。
しかし、一時は「安倍晋三記念小学校」を名乗り、
その夫人が名誉校長に就任しているとなれば、
この小学校が
安倍首相と極めて近い関係にあることは誰の目にも明らかである。
特段の便宜を図るよう首相自ら働きかけるまでもなく、
(例えば)官僚がその意を体して動くことは当然に想定される。
ゆえに有力政治家、
とりわけ首相ともなれば、
憶測を生まないよう慎重な行動が求められるはずだが、
安倍氏の辞書に「李下に冠を正さず」という言葉はないらしい。

こうした自ら手を汚さず
相手の忖度を期待するやり口は安倍氏の常套手段で、
慰安婦問題を扱ったNHKの「ETV2001」が
自民党の圧力で放送直前に内容が改変されたときも、
安倍氏は「公正中立にやってください」としか言っていない。
安倍氏と面談した当時の松尾武・NHK放送総局長は
朝日新聞の取材に対して
「(真意を)勘ぐれ」という意味に受け取ったと話している。
(松尾氏はその後証言を撤回したが、録音テープが残っていた。)

もうひとつは、森友学園の「教育」そのものが抱える問題である。
この学校法人が経営する塚本幼稚園は、
園児に教育勅語を朗読させることで知られている。
復古調というより「極右」の学校法人だが、
問題はそれだけに留まらない。
この学校法人の幹部(理事長やその妻)が保護者に対して
「よこしまな考えを持つ韓国人や支那人」などと記した文書を
再三にわたって配布していたことが明るみに出たのである。
わざわざ「支那人」などという表現を使っているところを見ても、
これはあからさまな「ヘイト」=差別・排外主義であり、
それ以外の何物でもない。
未確認だが、
こうした「教育方針」の下、
苛められて退園に至った在日韓国人園児がいるとの情報もある。
それが事実であったところで何の不思議もないだろう。
例えていうならドイツでネオナチが学校を開設し、
反ユダヤ教育を行なっているというに等しい話であって、
もちろん彼の国では到底許される話ではない。

こうしたヘイト体質の団体が
なぜ学校法人として認可されているかというのも疑問だが、
それを首相が国会答弁において
「(昭恵夫人によれば)教育に対する熱意は素晴らしい」などと
言ってしまうところに現代日本の深い病巣がある。

第二次安倍内閣の成立以来の悪政・失政は枚挙にいとまもないが、
これほど腹が立つ話もない。
多くの先人たちの血と引き換えに獲得した
民主主義や反差別という価値観がないがしろにされ、
そして、その動きを首相を先頭に政府が後押しするという
倒錯がまかり通っているのがいまの日本だ。
そしてその安倍政権がいまなお
国民の高い支持率を誇っているという異常事態である。
こんなことでいいのか、日本。
国際的な常識からみても、この後進性は「国辱」ではないのか。

2017年2月16日木曜日

釧路の日々は代わり映えもせず…

月曜日、一ヶ月ぶりに釧路に帰ってきた。
不在のあいだにかなりの雪が降ったのだろう。
前回、雪を掘って作った通路が消えかかっているので、
改めて家の正面と裏側を除雪し、玄関へのアプローチを確保する。
それよりショックだったのが、
きちんと水道の元栓を落としていたはずなのに
留守のあいだに水道管に僅かに残っていた水が凍結、
浴室のシャワーの付け根の金属が裂けていたことである。
こうなると蛇口部分の全体を交換するしかない。
専門の業者に即日対応してもらえたからよかったが、
3万円近い出費は想定外で、退職後の身には痛手だった。

留守にしていたあいだのケアを別にすれば、
釧路で過ごす毎日は代わり映えがしない。
きょうは朝8時半に起床、
ベッドの中で先日亡くなった谷口ジローさんの
「坊ちゃんの時代」シリーズ(原作・関川夏央)を読む。
9時にベッドを出て、人参、林檎、檸檬を搾って生ジュースを作る。
朝食のメニューは毎朝同じで、
このジュースと卵二つの目玉焼き、ヨーグルト。
紅茶かコーヒーのどちらかを飲む。
今朝はコーヒー、
釧路の「サンサン」という店の豆で、これは美味しい。
ヨドバシ・ドットコムに注文していた、
やはり関川+谷口コンビの「事件屋稼業」1巻と2巻、
西原理恵子の「ダーリンは71歳」が届く。
釧路には今週末までの滞在なので、とても全部は読めそうにない。
我が家から坂を下ったところにあるステーションにゴミを出す。
毎週月曜と木曜が燃えるゴミの日で、
毎日大量に出るジュースの搾りかすに加えて、
冬のあいだは薪ストーブの残灰があるのでゴミの量が多い。
急坂が凍っているので、
ゴミ袋を持っておっかなびっくり滑らないように下りていく。

食器を洗ってインターネットでニュースのチェックをしたりするうち、
気がつけば時間は正午をまわっている。
いつもなら昼食も自炊、
パスタ(ソースは自作)か広島風お好み焼き、
ときどきイクラ丼というのが定番だが、
きょうは外食にして「Loop」なる店でエゾシカ肉のカレーを食べた。
(週に一度くらいは気分転換で外食をしたくなる。)
その足でスーパーマーケットまで行って買物。
天気のいい日には、
夕陽の撮影を兼ねてもっと遅くなってから出ることが多い。
現在の日没は17時前で、年末に比べれば1時間ほど遅くなった。


これは昨日の夕陽。
晴れあがって、雲がほとんどない冬の日の夕焼けである。

帰宅して、かみさんがある週刊誌から依頼された、
鍼灸のツボに関する文章を添削する。
「添削」といっても、
かみさんの日本語はいい加減だから、ほとんど一から書き直すに近い。
この春からかみさんが通信制の鍼灸大学院で学ぶので、
ぼくはこうした「内助の功」を迫られることが多くなりそうだ。
テレビ屋として仕事をする余力があるのか、不安なきにしもあらず。
少しでもお金を稼いで、釧路でお墓を買おうと思っているのだが…。
夕方はDVDかハードディスクに録画しておいた映画を観る。
今日はハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」(’59)。
昨日はやはりホークスの「赤ちゃん教育」(’38)を観た。
明日もホークスにして、「ハタリ!」(’62)でも観ようかな。

映画を観終わって夕食の準備にかかる。
これもほぼ毎晩、自炊の家飲み。
今夜はイカの酢〆と先日作っておいた砂肝の酢漬け、
紅鮭を焼いて、一人用の七輪で氷下魚の生干しを炙って食べる。
酒は山形の「麓井」を飲む。
飲み食いしながら
録画とDVDで柳家さん喬の落語を聴く(「笠碁」「時そば」)。
ぼくは三十年来のさん喬ファンで、
小三治の後に落語界の屋台骨を支えるのはさん喬だと思っているのだ。

また食器を洗い、風呂を沸かして入る。
すべての家事が片づくと、
酒を舐めながら午前1時か2時ごろまで本を読む。
開高健の「最後の晩餐」が読みさしだが、
今回は谷口ジローを(追悼の意味を込めて)優先するしかないかな。
こうして釧路で過ごす日々は、
代わり映えがしないようでいながら、
それなりに忙しく、気ぜわしく、あっというまに過ぎていくのである。




2017年2月12日日曜日

ぼくの「食べログ」

仕事の第一線を退いて一年になるが、現役時代は本当に出張が多かった。
それも海外出張はせず、
もっぱら日本の地方を歩き回っていたのである。
ぼくは酒飲みだから、
出張の夜はまず、その街で飲み食いする場所を探す。
地元の人やタクシーの運転手さんに訊くこともあったが、
それほど大きくない地方都市だと
繁華街をぐるり2周くらい歩きまわって良さそうな店の目星をつけた。
30年以上それをやってきたから、
次第に鼻が利くようになって打率はけっこう高かったと思う。

近年ではインターネットの発達により
「食べログ」などという便利なものもできて、
それを参考にすることも増えた。
経験的に言えば、
「食べログ」で3.5以上の得点を得ている店ならまず間違いはない。
しかし、所詮はネットの人気投票で、
こうしたものに頼っていると嗅覚が鈍るなあ…という危機感もある。

東日本大震災以降、東北での取材が増えたが、
盛岡、福島、相馬、南相馬、いわき…
よく通うことになった街には何処にも「行きつけの店」ができた。
その街に泊まれば必ず行きたくなる店。
しかし、ふと気がつけば、
そのなかに「食べログ」で探した店はない。
昔ながらに自分の足で見つけたか、
地元の人に教えてもらった店ばかりである。
「食べログ」は便利だが、
平均点評価の限界というのだろうか、
クセになるほど個性的な魅力のある店が埋没してしまうのかもしれない。

さて。
ぼくは東京の西荻窪に住んで2年半になる。
その前は隣の荻窪に10年いた。
だからこの界隈にはそれなりに詳しい。
気に入っている飲食店(というか、飲み屋w)を何軒か紹介してみよう。
すべて「自分の足で歩いて探した店」だが、
参考までに「食べログ」による評価を付記する。

まずは荻窪駅北口の和食「有いち」。
先週の土曜日に妻と二人で食事をしたが、
開店してちょうど10年になるという話だった。


ぼくはこの店ができたときに気がついて、
ちょっと敷居が高そうな気がしてしばらく入るのを躊躇していたが、
ある日、意を決して暖簾をくぐるとこれが大変いい店だった。
主人はまだ若い人だが、
名のある料理店で修行してきたらしく、
きちんとした折り目正しい料理を供する。
目が利くのだろう、魚はとても状態のいいものを使っている。


おまかせコースが税抜き6千円からで、
安い店とは言えないがコスト・パフォーマンスはとてもいい。
ぼくはコスパ重視派なので、
1万円でも安い店があれば、2千円で高い店もあると思っている。
そういう意味で言えば、「有いち」は安い。


見た目も美しく味もいい小鉢は、
先週の土曜日で言えば、
海鼠、新筍、白魚と山葵菜の和えもの、
蛍烏賊と野蒜の酢味噌、自家製からすみなど。
〆にはなかなかの蕎麦が出る。
「食べログ」での評価はきょう現在3.58と高い。
そのためか、
最近では、ふらっと立ち寄っても入れないことが多くなった。
週末は予約をとるのも難しい。
開店当時からのファンとしては痛し痒しの思いだが、
主人は最近は地元のお客さんが増えたと喜んでいる。
こうした店が銀座や赤坂、六本木ではなく、
地元にあることの幸せを思う。
主人が若く研究熱心なだけに、まだまだ伸び代がありそうだ。

ぼくが住んでいるマンションから、
神明通りを環八方面に2〜3分歩いたところに
ワインとイタリアンの店、「upim」がある。
「足で探した」も何も、これだけ近いと嫌でも気がつく。
駅前の繁華街とは離れているが、
マンションの下見に行ったときに“発見”した。
ある日、覗いてみると、
スキンヘッドの
一見怖そうなお兄さんがやっているのでちょっとビビったが、
その実は心優しきバードウォッチャーである。


「upim」は洋風居酒屋、バールといった佇まいの店で、
前菜を何品か頼んでワインを飲み、
旨いパスタで締めるという使い方をしている。
ワインはトスカーナもあるが、
ラツィオやシチリアなどの安くて旨い銘柄を揃えているのが特徴。
ハウスワインもなかなかのもので、従ってコスパは上々である。


この店の特徴の一つはピザが美味しいことで、
酒飲みでピザをそれほど好まないぼくが食べても旨いと思う。
妻などは太る、太ると言いながら必ず注文する。
オーソドックスなマルガリータも旨いが、
シラスのピザ(写真)もいい。
「食べログ」の評価は3.06で、
それほど高くないので、これは穴場である。
それでも、
この店の味を知る地元の人たちでいつも賑わっているのだが…。
研究熱心な主人夫婦は、現在、店を休んでシチリア旅行中。
今月下旬には帰ってくる予定で、
土産話と新しい食材、料理を常連客は心待ちにしているところだ。

神明通りを逆に西荻窪駅方向に5分ほど歩くと
「鳥や 斉藤」がある。
(最近、外装を変え、店名も「SETO」と変えたようだ。)
若い男性三人組が切り盛りする店で、
七輪の網の上で焼く軍鶏肉、数量限定の軍鶏鍋が売り物である。
この店もコスパが抜群。
店の内装は三人の手作りによる素朴なもので、
料理も手作りの豆腐や漬物が大変おいしい。
自家製ドレッシングがいいので、サラダも美味しく、ヘルシーである。


特筆すべきは軍鶏親子丼(650円)の美味しさで、これは絶品。
だから、休肝日に行くことも多い。
「食べログ」の評価は3.03だが、実力はそんなものではない。
行くたびにメニューが少しずつ増えている、発展途上の店。
駅前の繁華街を離れた立地だが、これも先が楽しみな店である。

一年前に仕事を退いて、
いまは「暇はあるけど金がない」状態。
現役時代に比べて、家飲みが圧倒的に多くなった。
そのうえ我が家の両側、歩いて数分のところに、
「upim」「SETO」のような
安くて旨い店があるとだんだん出不精になってしまう。
それでも、
西荻窪駅南口界隈は飲んべえには極めて蠱惑的なエリアで、
つい引っかかりたくなってしまうのも事実だ。
その南口界隈で最近気に入っている店をもう一軒。
「もつ吉 西荻窪店」である。


「もつ吉」は京風もつ鍋と肉の刺身が名物の店で、
荻窪駅北口に本店、すずらん通りに分店があることは知っていた。
店の外観がなかなかいい感じで、
試しに「食べログ」を調べてみるとそれぞれ3.55、3.25と評価も高く、
一度行ってみたいと思いながら機会を得られずにいた店である。
それが去年の暮れ、我が西荻にもあるのを見つけたのである。
「食べログ」での評価は3.07と他の2店より低いが、
基本的に同じ肉を使っているはずで、
このあたりがネット情報のいまいち信頼性に欠けるところである。


ぼくはもつ鍋は脂が強すぎて口に合わないが、
陶皿の上で焼いたもつ焼きが気に入っている。
妻や息子と一緒に家族で利用することが多い店だが、
二人ともかなり気に入っているようだ。


そして何より、
低温調理によって生肉に近い味わいを出した“刺身”が美味。
他では食べられない牛レバーのほか、
軽く炙ったハラミやミノの湯引き、ガツぽんなども旨い。
京野菜の九条葱をふんだんに使った和風の味が日本酒によく合い、
その日本酒も「澤屋まつもと」など京都の地酒を中心に、
「黒龍」「東洋美人」「風の森」など実に嬉しいセレクションである。

この店の面白いところは、
ネットで会員登録をすると様々な特典があるという今様の設定で、
先日、ぼくの誕生日に際しては、
売価3500円のワインを一本プレゼントしてくれた。
なかなかの太っ腹である。
週末は予約でほぼ満席みたいだし、
カウンターがないので一人では落ち着かないかもしれないが、
そのうちふらっと立ち寄ってみたい店である。








2017年1月26日木曜日

大人の休日倶楽部の旅(3)・強首温泉樅峰苑

「大人の休日倶楽部パス」(これが正式名称)の旅も3日目。
10時25分のバスで嶽温泉を発つ。
間一髪で11時27分弘前発の普通列車に乗れたので、
特急の指定席を予約していたのをキャンセルして、
秋田まで各駅停車の旅をすることにした。
新幹線はもちろん、特急の旅もどうにも味気なくていけない。
急がない旅は各駅停車に限る。
行けども行けども、窓の外は一面の銀世界だ。

弘前を発って2時間半、
固い座席にそろそろ尻が痛くなり始める頃に秋田駅到着。
30分ほどの乗り継ぎ時間を利用して駅弁を食べ、
再び奥羽本線の普通列車に乗って峰吉川に着いたのが15時12分。
列車の本数そのものが少ないので、
予定通り特急で行くより1時間早く到着することができた。
駅まで宿の車が迎えにきてくれていて、
4kmほど離れた強首(こわくび)温泉・樅峰苑へ。
国指定の有形文化財だという豪壮な建物である。


樅峰苑は元々この土地の豪農・小山田家の邸宅で、
小山田家は佐竹氏の秋田移封に伴いこの土地に住み着いたという。
代々名主を務め、現在の当主は十六代目。
戦前は450haもの田地を所有していたというから大地主である。
その富の蓄積の一端が贅を凝らしたこの建物にうかがわれる。


現在の建物は、以前の邸宅が地震で倒壊した後、大正6年に竣工。
今年でちょうど築100年になる。
地元の宮大工を京都に一年間派遣して
耐震技術を習得させてから建築にかかったという話だ。
様々な様式の破風を組み合わせたところに特徴があるというが、
ぼくにはよく判らない。


現在は旅館として活用されているが、
古い建物、とりわけ木造建築が好きなぼくには堪えられない。


この階段は鹿鳴館を模したものらしい。
建築様式には詳しくないが、和洋折衷であるのは判る。
明治の文明開化の波が
歳月を経てこうした形で奥羽にたどり着いたのだと思えば、
趣もひとしおというべきか。

温泉としての歴史は浅く、
1964年、天然ガスを試掘したところ温泉を掘り当てた。
それを機に小山田家は旅館に転業。
当初は数キロ離れた泉源から湯を引いていたが、
経済的に合わないので9年前に自家泉源を掘った。
ほどなくして東日本大震災があって元々の泉源は枯れてしまい、
いまでは樅峰苑だけが温泉旅館として残ったのだという。
泉質はナトリウム塩化物強塩泉、
つまり、舐めてみるとかなり塩辛いのである。
各地の温泉をまわってきたが、ここまで塩辛いのは記憶にない。


泉温49℃、無加水、無加熱の100%源泉掛け流し。
宿泊客は貸し切り露天風呂に入浴できる。
心地よいが、やはり一人では淋しい。
いつの日にか、若い娘と一緒に入浴したいと妄想を逞しくする。
前日、前々日の硫黄泉とは違うが、これもまたいい湯である。

この宿の特徴は食事が実に美味しいことだ。
松楓荘、山のホテルに比べると宿泊費が5千円ほど高く、
今回の旅で最も贅沢をした宿だが、それだけのことはある。
ぶりこを腹いっぱいに抱えた鰰の醤油麹漬け焼きを除けば、
すべてが山の幸、川の恵みで、ぼくにはそれが嬉しい。


あみ茸、湯葉、鯉の甘露煮…
上の写真はモクズガニの味噌を甲羅に入れて焼いたもので、
一人前に5〜6杯の蟹を使っているという。
実に濃厚な味わいで、日本酒好きにはたまらない。


こちらは同じモクズガニの唐揚げで、香ばしさが身上。
ともかく、いずれの料理もおいしくて、酒が進む、進む…。
その酒も、
「まんさくの花」で知られる
横手市の日の丸醸造(大きく出たネ)が醸したオリジナル純米吟醸、
ビールも「田沢湖 湖畔の杜」のデュンケル、ピルスナーなど、
他でなかなか飲めない銘柄があって申し分ない。
3泊4日の最後の夜を満喫した。

ぼくは「源泉掛け流し原理主義者」の温泉好きで、
いままでも結構あちらこちらの温泉をまわってきたが、
今回の旅は3泊とも水準を超える、個性的な温泉宿で満足をした。
次回の「大人の休日倶楽部パス」では何処に行こうかと、
いまから期待を膨らませている。
東北は広い。まだまだ訪れたことのない温泉が山ほどある。
そして、信州や甲州、越後、加賀、伊豆、群馬に栃木…
百まで生きないと、とても回りきれないなあ。









2017年1月25日水曜日

大人の休日倶楽部の旅(2)・嶽温泉 山のホテル

9時45分、きのうも乗ったボンネットバスで、松川温泉を発つ。
この便を逃すと、午後になるまでバスはない。


地元のおばちゃんによると、
曲がりくねった雪の山道を登れるバスが他にないので、
古いバスをメンテナンスしながら使っているそうだ。
冬季間だけの運行で、
してみれば、
何も知らずに来てこのバスに乗ったぼくは運が良かったのだろう。
なにせ日本にもはや数台しかないという話らしいから。

盛岡駅から新幹線で新青森へ。
この間はトンネルばかりで旅の風情も何もあったものではない。
特急つがるに乗り継いで、弘前へ。
この街には、四半世紀の昔、けっこう通った。
青森県がリゾート法の指定を受ける直前で、
様々な思惑が飛び交い、
岩木山周辺の町はどこか浮き足立って見えた。
戦後、岩木山麓での国営パイロット事業が失敗して、
事業に参加したリンゴ農家のほとんどが莫大な借金を抱えていた。
あわよくば、リゾートブームの波に乗って土地を売り、
起死回生をもくろんでいたのである。
それから10年ほどして、
リゾートブームの行く末を見届けようとぼくは再びこの地域を訪ねた。
そのときには、ブームはまさに泡沫のように弾けた後で、
リンゴの果樹園だったところが
荒れ果てるにまかせて見棄てられていたのは無惨な光景だった。

弘前からバスで1時間ほど走って嶽温泉に着く。


リゾートブームの当時、取材の拠点として何泊か泊まったところだ。
きのう松川温泉で青森の御夫婦と話していて思い出したのだが、
小島旅館という宿で、食事がとてもおいしかったという記憶がある。
今夜の宿は「山のホテル」で、
その小島旅館に隣接しているのであった。


建物は比較的最近改修したのか、新しくきれいに見えた。
トイレもシャワートイレが部屋ごとについている。
もし、うちのかみさんを連れてきていたら、
昨夜の松楓荘ではすっかり機嫌を損ねたに違いないが、
この宿なら許してもらえるだろう。
そのぶんだけ、秘湯の趣は希薄である。


風呂は二ヶ所にあって、露天風呂はない。
泉質はいずれも同じで、酸性含硫黄―カルシウム―塩化物泉。
白濁していて、硫化水素臭が強い、気持ちのいい湯だ。
当然、源泉掛け流し。
宿泊客用の浴室(写真)の前には自家製の甘酒が用意されていて、
風呂上がりに甘酒とは珍しいが、これが案外いける。
今回は蒲団を自分で敷くコースにして、
浮かせた予算で追加料理の鹿肉のたたき(864円)を注文した。
我ながらなかなか合理的であるw


食事は宿泊費の割には美味しく、
鮪、鰤、甘海老の刺身が出たのは感心できないが、
舞茸の土瓶蒸しや桜しめじのずんだ和えなどぼく好み。
リンゴのクリーム焼きも地域色があって嬉しい。


中に入っているのはグラタンで、
鍋も蓋もリンゴだから当然食べられる。
酒は「豊盃」など地酒三種類の利き酒セットを頼んだ。
締めのご飯はこの宿の名物らしいマタギ飯。


鶏肉に舞茸、竹の子、牛蒡、人参などを混ぜて炊き上げたもので、
先代の当主が熊狩りのマタギだったことから
メニューに採り入れたものらしい。

昨日の松楓荘は素晴らしい泉質に特化した宿だったが。
山のホテルは泉質・食事・設備のバランスがいい。
万人向けというべきか。
松楓荘もそうだが、
昨今は山の中の宿でもWi-Fiが飛んでいて、
こうしてブログを更新したりすることができる。
「Wi-Fi完備の秘湯」というのも時代の趨勢なのだろう。

2017年1月24日火曜日

大人の休日倶楽部の旅(1)・松川温泉松楓荘

JR東日本の「大人の休日倶楽部」周遊券を使って旅に出た。
これはJR東日本の管内なら4日間、
新幹線を含めいくら乗っても15000円というもので、
東京〜盛岡を普通に乗れば片道14740円だからお得感満載である。
ただ、使えるのは年に3回、
それも期間が限られているため、
去年は仕事や通院の都合とぶつかって結局使えず仕舞いだった。
今年は満を持して…東北に3泊4日の秘湯めぐりの旅に出た。

初日のきょうは岩手県の松川温泉。
在職時代、岩手にはよく仕事で通ったが、
交通が不便なためなかなか訪れる機会がなかったところである。
新幹線で盛岡まで行き、そこからバスで2時間近くかかる。
八幡平リゾ−トホテルまで行ったところで、
バスを乗り換えるように求められた。
ここから松川温泉までは昔懐かしいボンネットバスで行く。


バスには「1968年式TSD40改」とある。
なんだか戦時中の戦闘機の型式みたいだ(笑)。
この旧式のバスが雪の坂道をぜいぜい言いながら登っていく。
否が応でも「秘湯」への期待感が高まるではないか。
「松楓荘入口」のバス停で降りて、
新雪をきゅっきゅっと踏みしめながら歩くと、
雪に覆われた古い木造の建物が見えてくる。


今宵の宿、松楓荘である。
「日本秘湯を守る会」の会員旅館で、
ぼくは「守る会」のホームページから予約をした。
玄関のところにかすれた墨字で「寛保3年開湯」とある。
寛保3年は西暦1743年にあたるそうで、たいそう古い話だ。
さっそく入浴。
まず、露天風呂(混浴…だが、女性はいそうにもない)に入る。


野趣溢れる雪見風呂だ。
泉質は弱酸性の単純硫黄泉で白濁している。
とても体が温まる、いい湯だ。
内湯は「ぬるめ・普通の湯」と「熱めの湯」の二種類ある。
ぼくにとっては42℃前後の「熱め…」がちょうどいい。


浴室には湯気が充満していて、他の入浴客の顔が見えない。
湯気を通してほのかに見える人影から、
かろうじて他に人がいるのが判るぐらいだ。

夕食は素朴なもので、イワナの塩焼き、天ぷら、すき焼きなど。
食堂で隣りあった若いご夫婦に話しかけられる。
青森の人で、
各地の「秘湯を守る会」会員旅館をまわっているという。
一度、青森の深沢温泉に行ってみてください、と言われる。
八甲田山麓にある、鄙びた風情の一軒宿らしい。


ビールと盛岡の地酒「あさ開」の純米吟醸を飲む。
山の宿にきてまで海産物を食べたいとは思わないぼくは、
茸や山菜の類を肴に一杯やってすっかり上機嫌。
イワナの塩焼きが冷えていたのは少々残念だったが、
追加注文したイワナの刺身(500円)が美味しかった。


ビールと言えば、
この宿には「日本秘湯を守る会」限定の「秘湯ビール」がある。


秋田県で作られているもので330ml・650円はちとお高いが、
ラベルには
「日本で唯一、ブナの樹から採取したブナ天然酵母を使用」とある。
能書きはまぁどうでもいいのだが、
ちょっとエールっぽい、濃密な味わいの旨いビールだった。